昭和51年03月20日 朝の御理解
御理解 第17節
「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るな。」
信心の確立と言う事が言われます。愈々信心の確立が出来れば、先ずは神様との縁を切るような事はありますまいけれども、信心の確立が出来ていない。また出来るための修行がなされていない所から、神の綱が切れたと言う様な事になるのです。自分では切ろうとは思うていない。けれどもいつの間にか、切れたと同じような人が沢山ありはしないだろうかと。ね、信心はしておる。
神様は拝んでおるけれども、その実は神様との交流も感じられず、おかげもいわゆる信心しておるからというおかげを頂きえずして、おる人達がおりはせんだろうか。これは神の綱が切れたも同然、いや切れるいわば、寸前にあると言う様な感じが致します。所謂おかげをおかげと、ね。実感しきらない。まあ言うならば信心はせぬでも、おかげはやってあると言った様な、おかげを只それだけをおかげだと思うておるような人達。ね。御恩恵の中に生かされておるではないかと。ね。
自分の周囲はもう神様のお徳の中に浸っておるようなものではないかと、と言いながら、いうならば信心しておる者と、信心の無い者は親のある子とない子ほど違うと言われる様なおかげを受けていない。ね。信心はせぬでもおかげはやってある。成程信心はせんでも、おかげはやってあるという、只おかげだけに甘んじておるという人。ね。甘んじておるというか、ね。それだけからいうならば、一歩も出てない人。そしてそれは非常に高度な、高尚な信心のように言う人。特に教学者にそれが多いと言う事です。
いうならば神様を、ね。机上の上机の上で分かったと言う様な人達の上に、それが多いです。理論好きな人、ね。理屈の多い人。成程信心はせんでもおかげはやってあるという、そのおかげを監督し、ね。本当におかげだけに浸っておるというその感動が、ね。愈々信心修行に励まずにはおられないという、純信仰の世界というものを知らない。いうならば修行の世界を知らない。信心に修行は付きもの。
その修行を厭う。ね。そこからはいうならば、信心のある者と無い者は親の無い子と、ある子とほどの違いという、おかげのことになって来ない。私は信心の確立とか、信心の展開と言われるが、ね。信心の無い者にでも、おかげはやってあるというおかげを、いうならば基礎としてそこから、信心しておるからこその修行。ね。そこから信心しておるからこそのおかげの、いわば展開無しにはです。まあ神の綱が切れたとは言わんでも、ただ神の綱を握っておるというだけで、ね。
握って、いうならば、ね。神様のそばへ近付かせて頂くと言う事にならなければ、握っております、金光様の信心を頂いておりますというだけでは、いわゆる信心の有る者も無い者も、変わらないことになります。ね。その握って手繰るという手繰っていくと言うところ。神様へ愈々近づかせて頂くと言う所にです。信心修行があるのです。「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのは難しい。道を開くと言うても、匹夫の俗人から開くのじゃから、難しゅうて暇がいる。
神のおかげで開かせてもらうのぞ。例え一時は難しい事があっても、辛抱していくうちには、徳が受けられる。」という、ね。辛抱して修行をさせて頂いておるうちに、徳が受けられるという信心を目指さなければ、いうならば、おかげの展開にはならんのです。ね。いうならば神の綱を握っておるというだけではなくて、難しいそれは、ね。もう本当に息が切れるような、難しい所も通らせて頂くけれども、そこを生神金光大神様を唱えながら進めて行く所にです、ね。
そこを辛抱し抜いて行く所にです。徳が受けられる世界に、私共が向こうて行くと言う事が、信心の展開同時に、おかげの展開と言う事になります。そういう信心を身に付けて、初めて信心の確立と言う事になるのではないでしょうか。信心を頂いております。もう絶対、この綱だけは離しませんと言うて、それから一歩も前に進もうとしない。手繰り寄せようという努力をしない。ただ頭だけでの神様を、云々するというのは、ね。それこそ、机上でお米を作ると言う様なものではないだろうか。
お米というものはこういう風にして、こんなにして作るんだと言う事だけは分かっておっても、分かっておるだけでお米は頂けません。いわゆるままになるおかげにはなりません。それこそ八十八回もお米になるまでには、ね。手が掛かると言う事ですけれども、ね。そういう手を抜いて私はままになるおかげなどは、とてもおよびもつかない事だと思います。ね、神様と私共の間に交流が始まる。ね。そして例えていうならば、人間でも同じでありますように、ね。矢張り女の方が懐妊する。
そして十月十日という時間をかけて、初めて赤ん坊が生まれてくるように、一つのおかげというものも、そういういうならば、十月十日と言う様なものが、私はあるように思う。その手を抜いて、私はおかげが受けられるとは思われない。そりゃその間には暑い寒いも通らなければならない、ね。けれども矢張りその稲田が、青々としこっていったり、綺麗に育っていくそれを見ると、もうきつさも忘れるほどしの、秋の実りを思おうたら楽しゅうなる。自分の心のなかにです。
そこの所が小刻みにはあこれがお徳を受けていっておる印だな。これが御徳を受けるための修行だなという風にです。心に感じられるといわば、難儀と思うておった難儀も修行として受けられる。今日は「神の綱が切れたというが、神からは切らぬ。」成程神様から切られる様な事は絶対無いが、自分でも切れたとも、切ったとも思ってないけれども、切れたも同然の信心をしておる人が、ね。
御道の信者の中にでも沢山ありはしないだろうか。ね。信心はせんでもおかげはやってあるというおかげの中に安住して、それからは一歩も前に出ようとしない。ね。そして本当にそのおかげをおかげと実感する所から、ね。信心の喜びというか、ね。感動というか。その感動が次の信心修行になってくる。ね。その信心修行を抜きにした信心は、いうならば、神の綱が切れておらんにしても、ただ神の綱を握っておると言う事だけに過ぎない。信心をすれば親のある子と、無い子ほどの違いがです。
はっきり分かる感じられる、私はおかげの展開無しには、私は信心の確立と言う事は言えないと思う。ね。暇はいるけれども、ね。それは下から上に水を流すように難しいけれども、そこを辛抱しておるうちには徳が受けられるという、徳を受けていくいうなら信心の喜びというものは愈々募ってくる。いうならば信心しておれば一年一年有難うなってくるという、その有難いというものが伴っていかない信心であるならばです。
それは神の綱が切れたも同然。おかげの交流も無い。神様との交流も感じられない。ただし神様を知っておる。お米の造り道を知っておると言う事だけに過ぎない。切れたとまではいかん、金光様の信者信奉者として、ね。自負しておっても実際は切れたも同然のような信心をしておる人が沢山ありはしないだろうかと。そういう信心に終わってはならないと言う事を、今日は聞いて頂きました。
どうぞ。